過ぎし日と来たる日

ル・ピュイの道や日々のあれこれ

醜い亡霊たち

たしかに、今ものすごい勢いで日本という国が沈んでいっているのは間違いないと思います。それは、高市総理をはじめとした内閣、与党が悪政を行っているからに違いありません。彼らは明治維新からアジア・太平洋戦争で生み出された軍国主義者の亡霊なのです。それは間違いない。しかし、それすらもわからない日本の人びとも同じ亡霊ではありませんか。当時の「騙された」と言ってみずからの罪を不問に付した庶民たちの。やっていることが同じです。考えなしに他のアジア民族を蔑視・劣等視し、恥じない者たち。亡霊が亡霊の生み出すのですよ。今になって反戦を騒ぎ出す人たちも、自らが亡霊ではないと証明してください。

「平和」憲法

 3月25日に国会前で「平和憲法を守るための緊急アクション0325」というのがあったらしいです。以前書いたように、私は9条についていえば絶対に守るという立場ですので、実際に行動されている方々には頭が下がる思いです。

しかし、私にはこの憲法が「平和憲法」などと誇れるものとは思えません。むしろ「平和」憲法と言うべきではないかと思います。これは内容云々というより私たちの「甘え」によるものです。本当に平和を望むのなら「平和憲法があったから日本は戦争に巻き込まれずに済んだ」ではなく、「平和憲法があっても日本は軍隊を作り、武器を作り、アメリカ軍基地を作り、他国へ派兵した」と現状だけでなく過去の事実も受け入れるべきだと思います。自衛官が刃物を持って中国大使館へ侵入したというニュースがありましたが、本当に思い上りも甘えもここまで来たかという感です。相当危険なレベルで認識の崩壊が進んでいると思います。それは、右派だけでなく、中道も。

大変動期

 最近、世界でいろいろありすぎて、頭が追いつかないのですが、わたしたちは今、世界史の中で大きな変革期にいるような気がします。具体的には、アメリカが沈んでいっていることだと思います。ただ、このまま沈んでいかないのがアメリカで、今のように、他国を巻き添えにして少しでも長く居座ろうとするでしょう。まったく、たまったものではありません。

 我々はというと、過去をまったく反省、自省する知性を持たず、流されていくでしょう。アメリカ同様、日本という国はロクでもないと気づかないと、どっちに付くかといった低次元の話にしかなりません。結局、植民地主義を克服できるかどうかなのです。

 

無気力なのは

 私は選挙というものに全く期待していないので、今回の衆議院選挙の結果も最悪だったとはいえ、特別思うところもありません。そうなるだろうなという感じです。今の首相は絶対に勝てると踏んだから強引に選挙を行ったまでです。この路線は安倍氏を徹底追及できなかった時点で決まっていたと思います。

 私は自分自身を無気力だと思うことがしばしばあります。他人の方がいきいき活力のある人生を送っているように見える。しかし、私は私以上にそんな他人の方がよほど無気力ではないかと疑っています。

 以下に、映画監督である伊丹万作の有名な論考「戦争責任者の問題」(1946年)を載せます。本当にその通りだなと思います。

 

 多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。…多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。…このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 だまされたとさえいえば、いっさいの責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。…だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。

 だますものだけで戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。…あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまった国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけがない。…現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

コナンは自業自得

中国政府が「コナン」を非難しているようですが、至極真っ当です。そもそも、コナンの作中に出てくる警察、公安、自衛隊からして非常に右翼的で、良識のなさが明らかです。今の日本で右翼的というのは、アジアへの侵略を否定するのと同義で、友好するつもりはないと言っているようなもの。自業自得としか言いようがありません。

選挙について

 我々はいつまで騙されれば気が済むのでしょうか?

 誰かに希望を抱くとか、どっかの政党に夢を見るとか、そういうのもうやめましょう。

 今のところ、どんな経済政策を行なったところでこの国に暮らす人々の生活はよくならないのではないでしょうか。私はお金に疎いですが、ひとりひとりの人生の理念を育てることが強者に対抗できる経済政策だと思います。

 極右のごろつき、ならず者、詐欺師たちに魂を売り渡してはいけません。

ベンヤミンから見る9条の捉え方

 こんにちは。

 いかがお過ごしでしょうか。

 

 今回はドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」から憲法9条のことを考えてみようと思います。

 先に言うと、私は9条は解釈も含め変えてはならないと思っています。俗にいう「護憲派」と言えるでしょう。ただし、日本国憲法の全てを守れとは思いません。端的に言えば第一章(1条~8条)の天皇条項はもれなく破棄すべきと思っています。それは今回の趣旨とは異なるのでまた別の機会に。

 

 ご存知のように、日本国憲法の第九条は「戦争放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を掲げています。しかし私たちは、1951年の朝鮮戦争勃発以降、アメリカに請われる形で自衛隊というれっきとした「軍隊」を持っています。あれはどこからどう見ても軍隊です。

 では、日本国の軍隊「自衛隊」の戦力はどれくらいかというと、2025年の調査では8位となっています。軍事費についていえば、現在9兆円を超える予算案が提出されています。これは世界で見れば10位です。

 

 つまり、まったく「戦争放棄」していないのです。

 

 「自衛」は戦力ではないからOKとか、あるいは、軍隊だから正式に軍隊として扱われるように9条を改正すべきとかいう人がいますが、私は反対です。なぜなら、自分たちで戦争責任を追及せず、戦争犯罪人を裁かず、悪しき差別の象徴である天皇を廃せず、歴史から何も学ぼうとしなかった我々のような民族は、また同じことを繰り返していることに気づかないからです。私には、形を変えているだけで、また同じことが起こっているとしか思えません。

 そんな我々が戦争だけは「絶対にしない」なんてありえないでしょう。

 

 自衛隊なんていらないと思います。

 何より9条は、日本軍および日本人による戦争犠牲者の膨大な血と、残された者たちの恨みで書かれた誓約です。我々がこれを守らない限り、東アジア諸国(日本が占領支配した地域)とは永久に信頼関係を築けないと思います。それだけ重いことをしたという歴史を知らなければならないし、されたということを深く想像しなければなりません。

 

 

 さて、ベンヤミンという人ですが、主に第一次世界大戦から第二次大戦までに生きたドイツのユダヤ人作家です。作家というか、哲学者でもあり、批評家でもあり、評論家でもあり…となんと評したらよいか私にはわかりません。

 彼はいわゆる「フランクフルト学派」と呼ばれるグループに入ります。このグループはマルクス主義を研究していた方々で構成されていますが、私はその辺に明るくないですし、マルクスを読んだこともないので詳しい説明は避けます。

 

 

 彼はたくさんの文を残していますが、その中でも絶筆の「歴史の概念について(歴史哲学テーゼ)」は非常に示唆に富んだ文章群です。1~18までの各テーゼの中で今回私が取り上げたいのは7です。少し長いですが引用します。

 

 「いつの時代でも支配者は、かつての勝利者たち全体の遺産相続人である。したがって、(中略)こんにちにいたるまでの勝利者はだれもかれも、いま地に倒れているひとびとを踏みにじってゆく行列、こんにちの支配者たちの凱旋の行列に加わって、いっしょに行進する。行列は、従来の習慣を少しもたがえず、戦利品を引き廻して歩く。戦利品は文化財とよばれている。(中略)文化財は、ひとつの例外もなく、戦慄をおぼえずには考えられないような由来をもっているではないか。それは、その存在を、それを想像した偉大な天才たちの労苦に負っているだけでなく、作者たちと同時代のひとびとのいいしれぬ苦役にも、負っているのだ。それは文化のドキュメントであると同時に、野蛮のドキュメントでもある。」(『ベンヤミン著作集1 暴力批判論』野村修 訳、晶文社)

 

 なんのこっちゃって感じですね。

 実際、ベンヤミンの書き物は詩的想像力がなければ読み解くことが難しく、いわば、なにか降ってくるものを感じられないとつまらない文章でしょう。しかし、10年ほど前に私はこの文章を目にしたとき、私の中の9条の見方が変わるのを感じました。

 この国ではいわゆる「護憲派」はリベラルから左派に属するか、シンパシーを感じている人が多いでしょう。国政政党でいえば、今なら「中道改革」の左派、「社民党」、「共産党」にあてはまるでしょうか。これら「護憲派」の声でよく耳にするのが、「9条は宝」「9条があったから日本は戦争をせずに済んだ」等の9条に対する感謝というか、「我々のもの」という感じです。私もあるときまでは少なからず同様に考えていました。

 しかし、どうでしょう。

 ほんとうに、それでよいのでしょうか。

 

 上に引用した文でベンヤミンは、「いつの時代でも支配者は、かつての勝利者たち全体の遺産相続人である」と書いています。この国もそうではないでしょうか?

 アジア・太平洋戦争後、今の今までほぼ自民党が政権を担ってきましたし、歴代首相も戦前からの大物の2世3世、天皇はそのままのうのうと居座り、財閥もそのまま、挙げればキリがありません。つまり、依然として彼らは勝利者であり、遺産相続人なのです。言い換えれば、それが「日本」という国です。

 ベンヤミンはまた、支配者たちがひとびとを踏みにじって手に入れた戦利品が「文化財」とされてしまうことに警鐘を鳴らしています。それらが文化であると同時に野蛮でもあることに留意しないと、支配者たちと同じ思考になると。

 

 どうでしょう。

 これを9条のことだと仮定してみると。

 

 私は上で「9条は、日本軍および日本人による戦争犠牲者の膨大な血と、残された者たちの恨みで書かれた誓約」と書きました。これはれっきとした「野蛮のドキュメント」ではありませんか?しかし、「護憲派」は「文化のドキュメント」としてしか捉えていないと思います。はっきり言えば「9条は宝」などではないのです。

 戦利品というなら、日本軍に抵抗してきた東アジア諸国の人々にとってであり、同時に彼ら自身の血で手に入れた野蛮の文化財でもあります。我々が9条を「手に入れた文化財」と考えているうちは支配者たちと変わらないでしょう。

 9条を通して「戦争放棄」を実現しようとするなら、まず自己陶酔をやめる必要があります。自分の祖先がやってきたことをちゃんと知り、支配者たる大日本帝国および日本国の「行列」から外れなければなりません。自分を「国」と一体化させるのではなく、ひとりの「人間」として、ただし、外からは「日本人」として見られるものとして我々の「野蛮さ」を直視しなければ、「護憲派」もまたずるずると戦争に同意することになるでしょう。