過ぎし日と来たる日

ル・ピュイの道や日々のあれこれ

回想

2022/8/9  東京成田

 

8月9日、自宅を出るまでとても緊張していた。

何しろこのコロナ禍に3か月も国外に出るのだから。

飛行機は成田から午後18時に立つキャセイパシフィック。

12時ごろに都内の自宅を出て、新品のバックパックを背負い、汗だくになりながら電車に乗った。

家を出て一歩踏み出すと緊張はいくらかやわらいだ。

しかし、今更ながらふと疑問に思った。

いったい自分は何をしに行くのだろうか。

 

自分が今回の旅を思い立ったのはこの5月のことだった。ある日、仕事が早く切り上げられることになり、同僚とケーキを買って公園で食べながらしばらく話していたのだが、どういう流れかふとサンティアゴ巡礼の話になった。彼女はその道のことを知らなかったから自分が話したのだと思うが、その経緯は覚えていない。

 

 

大学生のころ、スペインのセビージャに1年いた。日本にいる時分からサンティアゴの巡礼道に興味を持っていたので、Sarria(サリア)からの110kmとその後のFisterra(フィステーラ)までの90kmをその滞在中に歩いたのだった。

 

2月下旬というオフシーズンということもあり、巡礼者は数えるほど。ましてや、スマホが世に出回り始めたばかりのころだ。

しかし、短い期間だったとはいえ、共に歩いたハイカーたちの姿や表情はとても印象的だった。

 

 

同僚とその話をするまで巡礼のことはすっかり忘れてしまっていた。いや、一度前職の同僚と巡礼の話をしたことはある。もともと興味を持っていたその人は私の話を聞き、しばらくしてル・ピュイに旅立った。自分も誘われたのだが、職場の立場上の問題で断ってしまった。

というか、その時はもう興味が失せてしまっていたのだと思う。

しかし、自分も休みをもらい、彼が歩いているのと同時期にヨーロッパへ立ち、パリのオペラ・ガルニエで再会した。

その人は5月下旬から歩き始め、自分と再会したのは8月17日だった。スペインはともかく、フランスの道は大変だったと語っていたのがやけに印象に残っている。

それが2018年のことだ。

 

2022年4月の時点で退職の意志を伝え、それはややあって8月の出発直前まで延びたが、その2022年5月にカミーノが突然やってきた。同僚とケーキを食べていた時点では本当に行くつもりなんてなかったのだ。

それから妙に気になってしまい、図書館で資料を探した。

それでも行くつもりはなかった。

はっきり言えば、本からは興味をひかれなかったのだ。ただひとつ、Vézelay(ヴェズレー)には行ってみたいと思った。

 

ヴェズレーには昔から一度は行ってみたいと思っていた。私がゴシックよりもロマネスク建築を好んでいたのもあるが、その村の素朴な雰囲気が圧倒的に魅力的だったからだ。

今思い返してみれば、おそらくヴェズレーへの興味がル・ピュイからスタートするキッカケになったのだと思う。少ない情報から察するに、ヴェズレーからの道はハイカーも少なく、宿も十分ではないようだったので、歩くにしても非現実的だった。

そこでル・ピュイから歩き始めた前職の同僚のことを思い出したのであろう。たぶんこのころからスカイスキャナーで航空券を調べていたような気がする。

それが6月の初めだった。

 

7月の便に安いのがけっこうあったが、体調不良や上司からの引き留めもあり7月はダメだなーと思いながらも情報集めは続けていた。

決心したのは8月に良い便を発見したのと、情報を集めるうちにル・ピュイの道への興味が高まったからだろう。なにより、この道には私がかねてから行ってみたかった村Conques(コンク)が道中にあった。

 

航空券を購入するまでは散々迷ったが、決めてしまえばあとはどんどん計画するだけだった。

 

そうこうして8月に入り、職場も円満退社した。荷物や健康面での不安がだんだんと増してきたが、何より不安だったのは、歩く道の詳細と宿の情報の少なさだった。

7月の初旬、 Gronze.comを参照して大まかな行程を立て、宿に予約のメールを入れた。

しかし、この時点でベッドが空いていないと返信が来た宿もけっこうあったのには面食らった。焦った私は2週間分くらいの宿をどんどん予約していったが、後になってそれがまた面倒なことを引き起こした。

とにかく、考えうるだけの準備をして出発の日を迎えたわけだが、退職から3日はナーバスになって、ほとんど上の空だったと思う。

 

自分はいったい何をしに行くのか。

そればかり考えて8月9日家を出たのだった。