過ぎし日と来たる日

ル・ピュイの道や日々のあれこれ

10月13日だったか、たまたま映画情報を見ていたら、当日から「月」という作品が上映されることを知ったので、その日のうちに新宿で見てきました。

 

この作品は石井裕也監督が辺見庸氏の同名の小説『月』を映像化したものです。

津久井やまゆり園の事件をモチーフに、外から見れば身体を動かすことができず、意識や思考能力があるのかもわからない入所者の「きーちゃん」を、逆説的に一人称の視点から思考や感情を自由に巡らせるという、小説であるからこそ可能な表現方法を採っています。まあその思考が実に「辺見庸」そのものなのですが。

 

私はと言うと、本書を発売日に買いながらも読み進められず、というのは難しいからではなく、実際の事件の恐ろしさと「きーちゃん」の思考の「痛々しさ」にため息が止まらず、結局今の今まで課題としてズルズルと引っ張ってきてしまいました。

そういうわけで、我ながらズルいとは思いつつも先に映像を見てしまったわけです。(その後、全て読み切りました。)

 

先に言っておくと、本作は映像化するべきではないと考えていました。というのも、事件のインパクトが強すぎて単純に表現として不可能だと思っていたのと、監督次第で観る人たちにある種の固定観念を植え付ける可能性が高いと思ったためです。

実際に映像を見て感じたのは、良くも悪くも「映画」だなと言う感じです。演技の上手い下手はよくわかりませんが、たしかに、俳優陣の迫真の演技には圧倒されるものがあります。ただ、「さとくん」がこの国のこの社会だから産み出された一つの結果という事実にもっと焦点を当てるべきだと感じました。これは本人もそう公言しているし、実際心からそう思っているのでしょうが、彼は「社会を良くしたい」と考えて「良心」からあの事件を起こしたのです。

 

ヴィクトル・ユーゴーは『レ・ミゼラブル』でマドレーヌ市長ことジャン・バルジャンに「最高の法は良心です」と言わせています。普通、「良心」は人を社会的に良いとされる方向に導きますが、今回はそうではありませんでした。ただ、これは私の推測ですが、彼はこの国、社会に漂う「社会的に良いとされる」、人々の隠された本心を吸い取り、本人の言う通り「良いこと」をするに至ったのです。

彼が倒錯したというなら、そもそも社会が倒錯しているのです。人間社会の前提としての諸概念、または目指すべき理想というものが底抜けして、一個人が圧倒的弱者を一方的に殺害するという世界史的にも類を見ない事件を起こしました。しかし、たまたま彼がやっただけで、予備軍のような人たちは山ほどいるような気がします。というのは、我々は常に「何かせよ」と脅迫のように促されている気がするからです。そういう状況では、容易に国家主義に取り込まれやすく、「過去の栄光」を誇るべきもののように自己目的化し、結果「それのために良いこと」をしようと考えてしまうわけです。その証拠に彼は今回の計画を総理大臣、衆院議長に送り、"beautiful  Japan"と言って人を殺していきました。

 

映画は見てくださいとしか言いようがありませんが、いずれにせよこれをキッカケの一つとして「さとくん」が産み出されない社会を目指すほかありません。それは健全でなくてもいい、人心や人権の土台がしっかりした社会です。