過ぎし日と来たる日

ル・ピュイの道や日々のあれこれ

"Time" is money?

資本主義社会においては、自力でお金を生み出すことができない「労働者」は自らの労働力を資本家に差し出して、その代わりとして賃金をもらう、という構造が一般です。

世界各地の新しい建築物、土地の再開発を見る機会が増え、いったいどこにこんなお金があるのかと非常に訝しく思うのですが、この国も年々借金を増やしながらも方々に投資する予算を増やしているので、世界全体のお金の量自体が増えて、それによって使えるお金も増えているのかなーなんて思ったりします。経済に疎いので詳しいことは知りませんが。

今から100年近く前、世界恐慌が起こったとき、アメリカがケインズの経済学からニューディール政策を採って経済を復活させたのは知られた話ですが、そのケインズが言うには今後技術が進歩すれば、人々は身を粉にして働かずとも十分な稼ぎを得る余裕ができるとのことです。

実際はどうでしょう。われわれの「時間」は技術の進歩に寄り添うように、ますます「有効活用」されるようになってはいないでしょうか。

普通、「時は金なり」という格言は時間は貴重なものだという「時」を消費する側が主体となることばだと思うのですが、例えば時給労働を考えたとき、これは意味が逆転するように思われます。つまり、われわれは自分に与えられた時間を「無駄遣い」させられているのです。

雇用する側にとっては非雇用者が有能であればあるほど「時は金なり」になるわけで、これは奴隷根性と言われても仕方のないことだと思います。

前にも書きましたが、ここ10年ほどで拝金主義が膨れ上がったように感じます。私は拝金主義それ自体は悪いこととは思いません。というか、資本主義においては自然の成り行きだと思います。しかし、相対的に全世界のお金の量が増えたと仮定して、価値を証明する基準としての貨幣の位置付けが絶対的なものになりつつあるという意味で、現在の拝金主義には嫌悪感を覚えます。

世の不幸の大半は金銭問題ではないでしょうか。誰かが得をしているということは誰かが損しているわけで、仮に自業自得や不可抗力であったとしても、そのような不幸は誰でも避けてほしいものです。

思うに、貨幣を別の等価価値に移した相互関係が築ければ、相対的に生活におけるお金の重要性が減るのではないでしょうか。以前、「時間銀行」なる概念を導入したスペインの自治体についての本を読んだことがありますが、このような貨幣以外での資本関係によって精神的に解放される面が一部あると思われます。

単純に精神面でのみ幸福感が増せば金などどうでもよいとはなりませんが、もうそろそろ自分の「時間」を他人の決めた貨幣価値に売り渡すのではなく、それに代わる価値に分散させていってもよいのではないでしょうか。