過ぎし日と来たる日

ル・ピュイの道や日々のあれこれ

『戦争と罪責』

野田正彰『戦争と罪責』1998年、岩波書店

もともと単行本で、つい最近岩波現代文庫にも入りました。

 

5月にやっと読んだ本です。長い間積読して放置していました。この本に改めて興味を持ったのはとある人の紹介なのですが、自分自身、本書をかなり昔にブックオフで100円で購入していたのです。なんでもっと早く読まなかったのか非常に悔やまれます。

 

本書はざっくり言えば、旧日本兵の中国・満州での戦争犯罪についての精神分析です。しかし、ただ犯罪を犯す兵士の精神構造を明らかにしているわけではありません。というより、ここで紹介されている元兵士たちは極めて特殊な経歴を持った方々です。彼らは敗戦後、撫順の「戦犯捕虜収容所」で10年近く(長い人はそれ以上)過ごし、帰国したのち、「中国帰還者連絡会」(略して「中帰連」)を結成しました。

彼らの何が特殊かと言うと、中国での捕虜生活において、自分たちの行った悪行を一から見つめさせられ、それらを自らの「罪」として認めたということです。逆に言えば、多くの帰還日本兵は自分のしてきたこと、または、自分の属する社会や国家のしてきたことを人倫の観点から正確に認識せず、自分の「罪」だとは思ってはいなかったということです。

一足遅く帰国して自分や軍の罪を公にした「中帰連」の面々に対し、先に帰ってきて新しい社会で黙々と新しい生活に没頭していた帰還兵士や国家、警察は、無視はおろか「中共による洗脳者」扱い、公安による徹底マークを行いました。一部心ある方々を除き、彼らの話は重んじられませんでした。

そもそも、彼らが心を開いて自分たちの「罪」を認めるように至った背景には、当時の中国首相、周恩来による誠実な戦犯処理があります。収容所の職員の中には日本兵に家族を殺された方も、もっと言えば、目の前の日本人に殺された方も多数いました。そのような環境で周恩来は、犯罪を犯した者が人間的にきちんと更生され、そのことが過去と向き合う新たな日本社会を作っていくことで再び戦争をしない日中友好の礎を作ろうとしたのでした。

これは寛大さという言葉だけでは言い表せられないでしょう。同じことを日本人でできる人がいたかと想像すると、答えはNOだと思います。

 

本書でとても興味深かったのは、この「罪を認める」つまり「認罪」の過程です。彼らとてすぐに罪を認識し、悪かったと認めたわけではないのです。そもそも「悪いことをしたな」と心の中ではうすうす思っていても、本当に「自分が悪かった」とは思っていないのです。また、それが「悪かった」と認識するようになっても、「なぜ」悪かったのか、「何が」悪かったのか、正確に把握するまでに相当の時間を要しています。それは帰国後も続き、日本でようやく認識できたという方もいます。

このような経験と思考の過程を持った方々に対し、さらに精神科医が分析するわけですね。

 

私にとって最も重要なのは、「認罪」の過程が一個人にどのような変化をもたらしていったのかという点です。この問題に関しては、単純に「悪かった」と言って謝罪をすれば済む話ではないのです。しかし、周恩来による旧日本兵の更生は本国の日本人には拒否反応を示されたとはいえ、稀に見る成功だったと思います。

一個人の人間的な更生が「認罪」以外で可能だったのか。あるとすれば、実生活、実社会でどのように応用できるのか。その先に「人間」に対する共通認識をどこまで高めていけるか。こういう視点がなかったし、今もないのが日本国、日本社会、日本人だとつくづく思います。

 

読むのがツラいけど良書です。