過ぎし日と来たる日

ル・ピュイの道や日々のあれこれ

漱石が書簡で「最近、世の中にいるのは小便壺の中にいるようだ。小便壺の中にいるのだから周囲も臭いが自分も同じく臭いだろう」みたいなことを書いていて、いかにも漱石らしいというか、そうかもしれないなーと思います。

 

同じく漱石の小説で『行人』という話がありますが、そこで「何もしていない人の顔は尊い」みたいなことをさらっと書いています。これは状況的には近代以降の自意識や自我に悩む主人公に対して、そのお手伝いさんの対照的な無頓着さを表してこう書いているのです。

はっきり言えば、お手伝いさんは無学のため悩むも何も、そもそも知識がないわけですが、この「何もしていない人」が文字通りの意味で「何もしていない」わけではありません。

 

人はひとりひとり違うとは言うものの、いったいどこからどこまで違うのでしょう。

考え方の過程、行動までの過程、感じ方の過程、実際の行動後の過程、これらのプロセスが根源的に異なるということが、それぞれの顔など身体的な個性よりも余程人間が異なるということだと私は思うわけですが、だいたい同じように見えるのは気のせいでしょうか。

漱石の言うところの「何もしていない人」というのは、そういう位置からは外れている人だと感じます。誰かが「何もしないでいられることの能力」ということを書いていたような気がしますが、そう、私もこうやってくだらないことを書いたり「する必要のないこと」を皆と同調したり、流れに乗ったりしてわざわざしてしまっているんですよね。

 

漱石がそのお手伝いさんを主人公が羨むように描いたのもよく分かります。彼女は「小便壺の中にいない人」だと思うんですよ。だから「何もしていない人の顔は尊い」というのは人間的にわざとらしくないことを言っているのだと思います。それは例えば電車内で、街中で、半永久的にスマホをいじっている人が多いのを見れば一目瞭然ではないでしょうか。

自分としては、ここにいる以上小便臭いのはしょうがないにしても、その臭さを少しでも取り除いていこうとしたいものです。